病院に付き添った日

1月11日と12日は、有給休暇のために珍しくお仕事が2連休でした。とはいえ、この日は家族が手術をするので、その付き添いに行く予定がありました。

 

手術、といっても、一度かかると必ず死んでしまうような、ものすごい大病なわけではなくて、もうちょっとありふれた病気の手術です。それでも、落ち着きのない我が家にとってこれは一大事です。朝から私が付き添いました。私の家族は、なんでも大げさにふるまう部分があります。

 

午前中は、家族は病室で安静にしている必要がありました。このコロナ禍の影響で、面会はなるべくご遠慮ください、といった具合でしたから、私は中に入れず、近くのデパートをうろうろして暇を潰しました。銀色夏生の「つれづれノート」を買い、車の中で読みました。これは、今は退職してしまった、仲良くしてくれていた同僚からおすすめされた本です。とても素敵な文章に、久しぶりに文字によって心が躍りました。

 

午後になって、また病院に向かいました。手術前に、少しだけデイルームで面会をしてもよい、ということでしたので、ちょっとだけ話して別れました。そんなに大がかりな手術ではないと分かっていても、やはり心が落ち着きません。スマートフォンで静かな音楽を聴いて、ざわついた気持ちを紛らわせました。

 

病院。

ここはとても不思議な場所です。どこを見ても清潔で、無駄がなく、内装も、職員の格好も、献立も、何もかもが必要最低限の空間に、人間の生と死が入り混じっている。隣のソファには、親子らしきひとたちが、私と同じようにそわそわした様子で座っていて、その近くのテーブルでは、おばあさんが車椅子の上で、認知症の検査らしきものをしていました。私の目の前のテーブルでは、女のひとがしずかに泣いていました。特別な生死感を持っているわけではないけれど、ここは本当に私を妙な気持ちにさせます。病室の間の壁に飾ってある褪せたへんな絵だとか、鳴り止まないナースコールの呼び出し音だとかを見たり聴いたりしていると、視界がぐるぐるとまわりだして、一瞬、いろんなことがよく分からなくなります。そんな気持ちで、明るい日差しの入るデイルームに座っていました。なにもせず、ただひとり。ずっと。

 

数時間後、家族は帰ってきました。顔を合わせてから帰りました。わたしは妙な気分が抜けないまま、家でひとりいました。

 

翌日は、嘘のように穏やかな気持ちでした。家族も無事に家に帰ってきて、普通の日常が返ってきました。私は心底ほっとしました。そして、またいつものように仕事に向かいました。