我が家の庭事情

3月になり、季節の移ろいがほんの少しずつ感じられるようになりました。私の職場では人事異動があり、これからの新生活に不安と期待を抱えながら過ごす今日この頃です。


さて、私の家には庭があります。決して広いわけではなく、大変こぢんまりとしているのですが、そこにはいっぱいに植物が植えてあります。毎年春になると、そこらじゅうに花が咲き誇り、かわいらしいミツバチの群れが花の蜜を吸いにやってきます。だんだんと、この庭にも春が来ているようです。


今年は有名な「ひたち海浜公園」のネモフィラ畑に憧れて、ネモフィラをたくさん植えてみました。地植えが生える、青い花弁が美しい花です。暖かったので、すでにぽつぽつといくつか花が開いています。


隅の方には、数年前に食卓に飾るために買って、花が終わった後にとりあえず植えたヒヤシンスが今年も蕾を持っています。我が家のガーデニングはかなり適当で、細かく土や水を管理したり、定期的に間引きをしたりはしないのですが、それでも毎年強く生きのびている花たちには芯の強いたくましさを感じずにはいられません。


真ん中にはルピナスを植えました。紫とピンクがあり、なかなか素敵な色合いです。マメ科の植物は小さい花がたくさんつくのがかわいらしくてお気に入りのひとつです。しゃんと立つ姿が凛としています。


また、この庭にはいたるところにイフェイオンが咲きます。植えた覚えはないのですが、ある年によく咲くようになってから、年々増えています。私はこの花の素朴でありながら可憐な薄紫が大好きで、そのまま増やし続けています。


夏には背の高いグラジオラスや勝手に自然交配した様々な色のガザニアなどが咲くのですが、特に楽しみなのがジギタリスです。初めてその佇まいを見たときは、まるで珍しい昆虫を見たような、(失礼だけど)少しの薄気味悪さと独特の美しさに衝撃を受けたものです。順調にすくすくと育っており、このままうんと大きく育って、またあの妖しい花姿を見せてくれることを心待ちにしています。


こんなふうに、植物から季節の移ろいを感じられるこの庭が結構好きです。春も夏も秋も冬も関係なく、ただベッドで天井を見つめていたあの頃を経験してから、四季折々の風情を感じられるありがたさをじっくりと噛みしめるようになりました。これからも時期の花を愛でたり、旬の食材を味わったりしながら、繰り返しの毎日のなかに小さな幸せを見出そうと思います。

図書館に行った日

2月20日、朝起きるとリビングが爽やかな甘酸っぱい香りでいっぱいでした。週末、たまたまスーパーでかりんの果実を見つけたので、かりん酒を仕込んだのです。初めてかりんの香りを知りましたが、どんな果物よりも素晴らしいと思いました。我が家は時おり果実酒を仕込みます。完成まで長い時間がかかるけれど、待てば待つだけおいしくなるので結構好きです。

 

最近買って著しく生活の質を上げてくれたコーヒーマシンでアメリカンコーヒーを飲んだあとは、ファミレスでスパゲティを食べました。ひとりでご飯を食べるのは現代人に与えられた最高の癒しであると、あるドラマは言っていますが、確かにその通りだと思います。家族と囲む食卓もいいですが、たまにこうしてひとりでゆっくりと食事をしたくなります。

 

食事のあとは街の図書館に行きました。本はあまり読みませんが、好きなほうです。子どもたちに読ませる絵本を借りにきたのですが、私も少しゆっくり本と戯れてみることにしました。

 

この図書館は幼い頃によく連れてきてもらいました。今よりも、子どもの頃のほうがもっと本が好きで、小学校の昼休みにはひとりで図書室に入り浸ったものでした。児童向けのファンタジー小説が大好きで、妖精をテーマにしたディズニーの小説シリーズは肌身離さず持っていたほどです。就職し、忙しくなるにつれどんどん活字から離れていきましたが、今の私を作ってくれたのは間違いなくあの時の本たちだろうと思います。そんなエモーショナルな気分になりつつ、図書館に入りました。

 

本棚の間に、ところどころ自習机やソファが置いてあるなかで、お気に入りの机があります。そこは目の前が窓であり、広場に面していて、目の前に噴水と銅像が見えるのです。タイミングが合えば、窓が少しだけ空いているときがあって、水の音を聞きながら本を読めるのです。そんなときは大好きな作家のエッセイや、たまたま見つけた素敵な表紙の本を持ってきて、しばらく読みふけります。噴水にたまった水みたいに、時間が止まったような、ゆったりとした気持ちになれます。もちろん、今日もそこに座りました。

 

私的な調べものをしたあと、さまざまな本を持ってきてはその机で読みました。観葉植物の歴史、西洋美術の見かた、ワインのアロマ、雑草図鑑。大学時代から雑学を学ぶことにハマっているので、この類の本が大好きです。

 

もっぱらエッセイばかり好むので、内田百聞の短編集も読みました。昔の仮名遣いですが、簡潔な文章で読みやすいので好きです。「第一阿呆列車」も面白かったです。

 

パラパラとめくってみて、続きが気になったので一冊だけ借りてきました。いろいろなものの文化史の本で、ずらっと何十巻もシリーズがあるなかで、「狐」の巻を選びました。民俗学的な話題にはかなり惹かれるものがあります。この本が面白かったら、地道に他の巻も読んでいこうかなと思いました。

 

久々に活字の海に溺れた休日。精神病にかかってから、読書はエネルギーを使わなければできなくなりましたが、それは価値のある作業なのだということには変わりありませんでした。あくまで私にとってですが、言葉は心の栄養です。とてもいい時間を過ごせました。

2024年のバレンタインデー

2月14日といえばバレンタインデー。私は昔からあまりこのイベントに馴染みがなく、好きな人にチョコを渡してドキドキしたり、友達と手作りチョコを交換し合って楽しんだりした経験がありません。そのため、私の中ではバレンタインデーといっても、それは「ただの2月中旬のとある日」に過ぎませんでした。

 

バレンタインデーを無視してきたのは、もともと交友関係を築くことが苦手だったこともありますが、甘いものが苦手な子どもであったということが1番大きな理由であると思います。10代の頃、アルバイト先のおばちゃんから言われた『そんなこと言ってね。甘いものが苦手なんて今だけよ。あと10年したら焼き芋や羊羹を食べているはずなんだから』という言葉をよく覚えています。

 

それからもうすぐ10年が経とうとしています。焼き芋こそまだ苦手ですが、羊羹、食べるようになりました。あの人の言うことは本当でした。

 

スイーツをたしなむ幸せを知ってから、ずっとやってみたかったことがあります。それは、バレンタインデーに、自分のための特別なチョコレートを選ぶこと。たまたまこの日はデパートの近くに用事があったので、帰りに寄ってみることにしました。

 

特設会場はたくさんの女性たちで賑わっていました。すでに人気商品はほとんど売り切れていましたが、まだまだ素敵なチョコが並んでいました。輝く宝石のような見た目のものや、惑星やクマの形をしたものなど、見ているだけでワクワクしてきます。ショーケースを真剣に眺めていると、「贈り物ですか?」と必ず聞かれるので、毎回「いえ、自分用です」と答えました。

 

さて、憧れだった自分へのバレンタインチョコ。一つ目は、羊羹で有名なとらやの「羊羹 au ショコラ」。すっかり羊羹のファンになってしまった私。この商品はずっと狙っていました。残りわずかでしたが、なんとか手に入れることができました。食感は羊羹、味は深みのあるカカオ。まるで生チョコのような新食感にやみつきになりました。

 

パティスリーヤナギムラの「薩摩蔵 焼酎ボンボン」も買いました。本物の瓶のラベルをそのまま縮小したという、小さくてなんとも可愛らしいラベルに一目惚れしたのです。沖縄の黒糖焼酎「白ゆり」と、「さつま島美人」という芋焼酎のものを選びました。ボンボンは初体験。焼酎の甘みがショコラと意外にもマッチして、とても楽しい味わいでした。もっといろいろな銘柄を試してみたくなりました。

 

さらにもうひとつ。ゴディバと「あつまれどうぶつの森」のコラボ商品です。買うつもりはなかったのですが、あまりのキュートさに思わず手が伸びてしまいました。キャラクターのプリントはもちろん、ゲームに登場する果物やアイテムを模した形のチョコが入っていて、「こんなにかわいいの、食べられないよ〜」と思いながら少しずつ口に入れたのですが、食べてみるとさすがはゴディバ、とてもおいしいチョコでした。

 

いつもはちょっぴり寂しい気持ちになるこの日でしたが、今年はとっても満たされた気分です。押しつぶされそうな日々を過ごしていますが、今日からしばらくは一粒の幸せが、私の帰りを待っています。

2024年の立春

3ヶ月ぶりの日記です。年が明け、いつの間にか1ヶ月が経過していました。このところ本当に仕事がハードで、毎日疲れ切ってしまうので、書きたいことがなかなか浮かんできませんでした。年末年始は文字通り寝正月を過ごし、またいつもの忙しない日常に戻っていきました。元旦には悲しい出来事もありました。一刻も早く、みんなが安心して暮らせる日がまた来ることを願うばかりです。

 

1月の中旬には、新型コロナウイルスに感染してしまいました。幸い発熱はせず、咳と鼻水の軽い症状だけで済みましたが、5日間は仕事を休まなければなりませんでした。職場には迷惑をかけてしまいましたが、正直なところ、少し仕事から離れることができたことにホッとしている自分がいました。偶然発症する数日前に図書館で借りていたモディアノの「失われた時のカフェで」を読んで過ごしました。

 

あっという間に節分が過ぎ、2月4日の今日は立春。暦の上では春が始まりましたが、空気はとても冷たい一日でした。今日はとある神社に行きました。ふと「交通安全のお守りが欲しいな」と思ったのと、「立春の日に神社に行くの、なんかいいじゃん」というのが理由です。申し込みを済ませ、ご祈祷をしていただきました。

 

神社でご祈祷をしていただくのはかなり久しぶりでした。まるで歌のような祝詞を聞いていたら、幼い頃によくこうして地元の小さな神社でご祈祷していただいたことを思い出しました。その神社は古くからの佇まいそのままで、リアルな天狗のお面や厳しい表情をした狛犬などが、幼い私には少し恐怖であったのを覚えています。祝詞が奏上されている間は正座で、口を閉じ、目をつぶり、少し頭を下げていなければなりません。少しでもその姿勢を崩せばすぐそばには大きな天狗がにらんでいて、子どもにはなかなか辛い時間でした。

 

聞こえてくる祝詞はもちろん、何を言っているのかさっぱり分かりません。まるで呪文のようで、それがまた私にはある意味気味が悪かったのでした。私は「オオカミ(大神)」という言葉を「オオカミ(狼)」だと勘違いしていたので、大きな怖い顔をした狼こそが、この神社を牛耳る神様の本当の姿なのだと信じて疑いませんでした。祝詞のなかからかすかに聞き取れた言葉から連想し、その狼がみんなの願い事を叶えてくれる物語を想像しながら時が過ぎるのを待つのがいつもの流れでした。

 

大人になって迎えた今日というこの日は、「オオカミ」の空想にはひたらず、神主さんのお祈りをじっと聞いていました。商売繁盛、安産祈願、試験合格、病気平癒。みなそれぞれいろいろな願いがありました。神主さんの合図に合わせて、みんなで一斉に二礼二拍手をし、しずかに祈りました。みんなの願い事も叶うといいな、と思いました。

 

夕暮れが薄い雲と霧ににじむなか、神社をあとにしました。希望通り、交通安全のお守りをもらいました。姿は見えないけれど、私は今まで確かに「オオカミ」に守られてきた、そんな気がしています。私にとっての神様は、オオカミなのです。そんなささやかな立春の日でした。

スピッツのライブに行った日

11月12日は日曜日。私は横浜にいました。みなとみらいにあるKアリーナ横浜にて行われる、大好きなスピッツのライブに行くためです。

 

スピッツに出会ったのは、就学前の幼い頃でした。母親が適当に買ったベストアルバムが車の中でよく流れていて、「ロビンソン」とか「渚」とかを聴きながら、いつも『きっとこの歌は何か難しいことを言っているな』と思っていました。

 

中学校に入り、少しだけものごとの裏側や、いろんなものの摂理などか見えはじめてきたころ、偶然「花鳥風月」というB面集に出会いました。幼い頃はただ難しいだけだと思っていたスピッツがつむぐ言葉たちが、青かったあの頃のささむけた心にしんと染みていった感覚は、今でも消えていません。

 

高校生になり、健全だったはずの私の精神が、少しずつ音を立てながら崩れはじめた頃、私は徐々に言葉の羅列に芸術性を見出すようになりました。草野マサムネによるメロディックな音楽と、それに乗る言葉たち。それが含む切なさ、愛おしさ、少しの狂気と性と死の香り。「インディゴ地平線」「ハヤブサ」「三日月ロック」「空の飛び方」「フェイクファー」…。大人になった今日の日まで、CDコンポやウォークマンで、何度も何度も聴きました。回りくどい言い方をしましたが、要するに、スピッツは私の青春そのものなのです。

 

ライブが始まる前には、横浜中華街で麻婆豆腐とフカヒレの姿煮をたらふく食べました。占い師にタロット占いもしてもらいました。こういう、「楽しみなことが始まる前の時間」こそがいちばん楽しいのだと、ひどく痛感しました。

 

開演後、大好きな曲の演奏が始まり、『なんか私、今日まで頑張ってきたよなあ…』と急にしんみりした気持ちになったその途端、自然と涙が溢れてきました。思えば、どんなに私が壊れていたとしても、いつもスピッツの存在だけは変わらなかった。春になって新生活が始まったとき、友達が遠いところへ転校したとき、受験で思い悩んだとき、得体の知れない不安に囲まれていたとき。それぞれのシーンに、それぞれの歌があった。優しい歌声に、思わずじーんときてしまいました。

 

それからは気を取り直して、死ぬほどに楽しみました。アルバムからの曲はもちろん、大好きなあの曲、ライブで定番の曲、そしてまさかのあの曲。とにかく楽しくて楽しくて、何よりも、大好きなスピッツのみんなに会えたことが嬉しくて嬉しくて。フィナーレには、ありがとうの気持ちを込めて、手がちぎれるくらいの拍手を送りました。

 

あまりに幸せになるとふと怖くなるのを、今夜だけはやめにしようと誓いながら、特別なビールとケーキを買って家路につき、その後はもちろんスピッツを聴きながら余韻に浸りました。ハードな毎日だけれど、それでもまだ続けていけるような気がしました。心から素晴らしい夜でした。

 

言葉とはなんとも得体の知れないものです。使い手によってはすぐに意味合いが変わってしまうし、裏側には全く別の意味が潜んでいるときもある。本当のことなんて、伝わらないことの方が多い。言葉は、複雑な感情を持つ人間だけが操ることのできる崇高なものだと思っていたけれど、大人になればなるほど、その役立たずっぷりに絶望してしまう。けれど、言葉で表現することはやっぱり人間の特権で、言葉での表現でしか生まれない美しさがあるということを、スピッツは教えてくれました。

 

私の言いたいことを、すでに村上春樹さんが素晴らしい文章で表現しているので引用します。『音楽には常に理屈や論理を超えた物語があり、その物語と結びついた深く優しい個人的背景がある』ーー。スピッツが描く「物語」が、どのアーティストよりも私は大好きです。スピッツは確実に、私が言葉に興味を持ち、言葉を楽しむようになれたきっかけの存在です。スピッツ、ありがとう!音楽って最高!

運転について

11月に入ったというのに、暑い日が続いています。今週末に雨が降って、ようやく冬の兆しが見えはじめるようですが、年々と秋の情緒がなくなってきているような気がしてなりません。

 

そんな季節外れの暖かさの11月9日は木曜日。仕事が休みです。しかし今日はやることがあります。ディーラーに行って、愛車のワイパーゴムを交換してもらわなければならないのです。

 

ディーラーまではもちろん車で向かいます。ランダムにJポップを流しながら、愛車を走らせました。もともと私は運転が苦手で、車というものを毛嫌いしていました。危ないし、大金を払わないといけないし、技術がいるし…。でも、今はそうではありません。通勤中や、仕事中に車でちょっと外に出る時間は、いい気分転換になります。

 

運転するたびに、道路って不思議な場所だな、と思います。きれいな服を着た女性や、サングラスに金髪の若い男性、作業服姿で仲間と話しながらタバコをふかしている人、他県ナンバーのいかついトラック運転手。普段は交わることのない、様々な種類の人たちが、様々な事情で同じこの場所に集まっている。そして、私たちはすぐに解散する。目指す行き先に向かうために。その刹那的な偶然性が、なぜだか少し切なくて、なぜだか少し面白い。

 

停車中、ふとルームミラーを覗くと、後ろに停まる車の運転手がよく見えます。難しい顔をしてただ前を見ている人や、気持ちよさそうに熱唱している人もいれば、鼻をほじって青信号を待つ人もいたり、イチャイチャを楽しむカップルがいたり。ふだんあまり意識はしないけれど、この街にはほんとうにたくさんの人が、いろんな理由で存在していて、それぞれがそれぞれの生活を、日々全うしているんだ。車を走らせると、そのことをよく考えます。

 

そうこうしているうちに、ディーラーに到着しました。最近水の弾きが悪いと感じていたワイパーゴムは、やっぱりちぎれていました。交換はすぐに終わり、ディーラーを後にした私は、なんだかドライブをしたくなりました。

 

当てもなければ目的もない、車体の揺れと景色の移り変わりを感じながら、ただただアクセルとブレーキを踏む作業を繰り返す。そんなドライブがしたい。私は愛車とともに、少し離れた街をどんどん進んでいきました。家、家、家、たまに高い建物、たまに川。そしてまた家。私は住宅街が好きです。ここにも、いろんな人生が入り混じっているから。秋晴れのドライブはとても気持ちの良いものでした。

 

ランダムにかけていた車内の音楽が、サザンオールスターズの「TSUNAMI」になった頃、自分がぺこぺこの空腹の状態であることに気がつきました。この辺りでドライブは引き上げて、ちょっとそこら辺のファミレスでゆっくりすることにしました。

 

生活。多種多様な作業の繰り返し。繰り返しの中に渦巻く、変わりゆく感情たちの渦。日々を重ねていくたびに出来上がっていく、自分だけの哲学のようなもの。その循環は、単調なようで実はとても奥深い。そんなことを考えた、ドライブ日和でした。

幸せな食べもの

ある日、なんだか体調が悪いと思っていたら、夜に発熱してしまいました。熱は夕方になるにつれ上がり、真夜中には38度にもなるのだけど、朝がくれば微熱になる、というのを、5日繰り返しました。身体は元気な私ですが、さすがにうなされながら眠る夜を5回も続けると、体力の消耗が激しく、ただただ横になることしかできませんでした。

 

そして何よりも、仕事を何日も休まなければなりませんでした。元気になるにつれ、その現実を理解してきた私の脳は、次第に自責の念に駆られていきました。ただでさえ忙しいのに、風邪なんてくだらない理由でこんなにも休んでしまった。技能も、信頼も、何もかも地の底についただろう。私はなんて愚かな人間なんだ。もう私に残された道は退職しかないーーー。

 

と、今までの自分なら考えていたことでしょう。それがどんなに独りよがりな状態であるか、今の私になら分かります。確かに相当な迷惑はかけてしまったけれど、それはこれからの仕事で挽回していくしかない。上司には電話で何度も謝りましたが、「でも、手洗いうがいは毎日してたし。マスクもいつもしてるよ。なんなら手指消毒もしてたし、夜9時には寝てる。それでも風邪なんてかかるときはかかるんだよ〜」と、心の中で思えるくらいには、図太くなりました。

 

ですが、休んでいる間、誰かが私の開けた穴をフォローしてくれていたのは事実。やはり菓子折りくらいは買うべきでしょう。「菓子折り文化」には懐疑的な私なのですが、それ以外に折り合いをつける方法も思いつかず、仕方がないのでお菓子屋さんに出向くことにしたのでした。

 

甘いもの。チョコチップクッキー、やわらかそうなフィナンシェ、切り株のようなバウムクーヘン。クリームたっぷりなエクレアにふわふわのカステラ、そしてなにより、かわいいいちごのケーキ。

みんな苦手です。

いいえ、苦手でした。

 

子どもの頃から、本当にお菓子を好みませんでした。甘いものを食べると、そのあまりのあざとい甘さにすっかりやられてしまい、どうにも気分が悪くなるのです。もちろん、コーヒーも必ずブラック。それが私でした。

 

ところが、ある年齢を過ぎた頃、どうも生クリームがおいしいと感じるようになり、チョコレートがあると嬉しいと思うようになり、ついには疲れた夜にはどら焼きなんかを食べるようになり…。きっと、歳をとったのですね。

 

近所の人気洋菓子店に入ると、菓子折りを買いに来たというのに、入店するや否や『どれ買おうかなあ…』と悩む自分がいました。ショーケースに目をやると、まるで幾何学模様みたいに規則正しく整列したシャインマスカットが美しいタルトとか、端正な佇まいがクラシカルな感じのチーズケーキとか、華やかで麗しさのあるケーキたちがずらっと並んでいて、思わずワクワクしてしまうのでした。結局、菓子折りの他にも、シフォンケーキとバウムクーヘンを買いました。

 

見た目の愛らしさにふさわしい、ほろっと幸せな甘い味がするスイーツ。なんでもない日のおやつ、特別な日のデザート、疲れた夜のご褒美。どんなシーンにもふわっと生活に馴染んでくれる、私の心強い味方になりました。シフォンケーキ、楽しみだなあ。