スピッツのライブに行った日

11月12日は日曜日。私は横浜にいました。みなとみらいにあるKアリーナ横浜にて行われる、大好きなスピッツのライブに行くためです。

 

スピッツに出会ったのは、就学前の幼い頃でした。母親が適当に買ったベストアルバムが車の中でよく流れていて、「ロビンソン」とか「渚」とかを聴きながら、いつも『きっとこの歌は何か難しいことを言っているな』と思っていました。

 

中学校に入り、少しだけものごとの裏側や、いろんなものの摂理などか見えはじめてきたころ、偶然「花鳥風月」というB面集に出会いました。幼い頃はただ難しいだけだと思っていたスピッツがつむぐ言葉たちが、青かったあの頃のささむけた心にしんと染みていった感覚は、今でも消えていません。

 

高校生になり、健全だったはずの私の精神が、少しずつ音を立てながら崩れはじめた頃、私は徐々に言葉の羅列に芸術性を見出すようになりました。草野マサムネによるメロディックな音楽と、それに乗る言葉たち。それが含む切なさ、愛おしさ、少しの狂気と性と死の香り。「インディゴ地平線」「ハヤブサ」「三日月ロック」「空の飛び方」「フェイクファー」…。大人になった今日の日まで、CDコンポやウォークマンで、何度も何度も聴きました。回りくどい言い方をしましたが、要するに、スピッツは私の青春そのものなのです。

 

ライブが始まる前には、横浜中華街で麻婆豆腐とフカヒレの姿煮をたらふく食べました。占い師にタロット占いもしてもらいました。こういう、「楽しみなことが始まる前の時間」こそがいちばん楽しいのだと、ひどく痛感しました。

 

開演後、大好きな曲の演奏が始まり、『なんか私、今日まで頑張ってきたよなあ…』と急にしんみりした気持ちになったその途端、自然と涙が溢れてきました。思えば、どんなに私が壊れていたとしても、いつもスピッツの存在だけは変わらなかった。春になって新生活が始まったとき、友達が遠いところへ転校したとき、受験で思い悩んだとき、得体の知れない不安に囲まれていたとき。それぞれのシーンに、それぞれの歌があった。優しい歌声に、思わずじーんときてしまいました。

 

それからは気を取り直して、死ぬほどに楽しみました。アルバムからの曲はもちろん、大好きなあの曲、ライブで定番の曲、そしてまさかのあの曲。とにかく楽しくて楽しくて、何よりも、大好きなスピッツのみんなに会えたことが嬉しくて嬉しくて。フィナーレには、ありがとうの気持ちを込めて、手がちぎれるくらいの拍手を送りました。

 

あまりに幸せになるとふと怖くなるのを、今夜だけはやめにしようと誓いながら、特別なビールとケーキを買って家路につき、その後はもちろんスピッツを聴きながら余韻に浸りました。ハードな毎日だけれど、それでもまだ続けていけるような気がしました。心から素晴らしい夜でした。

 

言葉とはなんとも得体の知れないものです。使い手によってはすぐに意味合いが変わってしまうし、裏側には全く別の意味が潜んでいるときもある。本当のことなんて、伝わらないことの方が多い。言葉は、複雑な感情を持つ人間だけが操ることのできる崇高なものだと思っていたけれど、大人になればなるほど、その役立たずっぷりに絶望してしまう。けれど、言葉で表現することはやっぱり人間の特権で、言葉での表現でしか生まれない美しさがあるということを、スピッツは教えてくれました。

 

私の言いたいことを、すでに村上春樹さんが素晴らしい文章で表現しているので引用します。『音楽には常に理屈や論理を超えた物語があり、その物語と結びついた深く優しい個人的背景がある』ーー。スピッツが描く「物語」が、どのアーティストよりも私は大好きです。スピッツは確実に、私が言葉に興味を持ち、言葉を楽しむようになれたきっかけの存在です。スピッツ、ありがとう!音楽って最高!